今回は本川地区の人口推移について簡単にご紹介します。
本川地区の人口について最も最古の情報は『土佐国七郡郷村帳控』による1740年のデータで、高藪、足谷を除く9の部落全体で1,147人となっており、この頃の本川地区には1,200人近い人々が生活していたことが推測されます。江戸時代中期以降の江戸時代は人口がほぼ横ばいで推移し明治維新後から急激な人口増となるのですが、大正9年の第一回国勢調査では本川地区の人口は1,786人となっており、国の人口推移と似た動きをしていたものと想像されます。
さて、第一回国勢調査の大正9年以降ですが、昭和10年までは1,700から1,800人ほどでほぼ横ばいになっていますが、昭和10~15年で急激に増加しています。これはダム建設の作業者が移住したことによるもので、終戦を迎えた後は3,000人を割っています。そしてその後は減少が継続的に続き、平成22年度の調査では563人にまで減少してしまいました。
日本における過疎化は1960年までに人口のピークを迎え、そこから減少に転じ一旦第二次ベビーブームで少し巻き返すがその後また減少が始まり現在に至る、という動きが典型的です。本川地区では多少同様の傾向は見えるものの、戦後から今まで完全に右肩下がりと言っても過言でないくらいになっているのが特徴です。そもそもの人口のベースがダム工事施工者による人口流入によるものであるとともに、他の過疎地と比較しても森林率が高く農業に適さないことから本川に定着する積極的な理由がなかったのかもしれません。また、本川の主力産業は古くから林業でしたから、戦後の日本での林業衰退に伴いこの地区の林業も衰退の一途をたどっていったことは自然なこととも思えます。
戦後の本川地区は過疎化の中でどのような取り組みをしてきたのでしょうか。無論その間にただ衰退していくことを受け入れていたわけではありません。戦後の取り組みについては別の機会に紹介したいと思います。
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